
江戸期から19世紀末ころまで、肥料の中心をなしたのはの魚肥でした。
その後、日清・日露戦争後になると、中国大陸からダイズかすが安価に輸入されるようになり、大正中期までは肥料は、ダイズかす中心の時期が続きました。
化学肥料については、まず1887年に東京人造肥料会社(今の日産化学)が設立され、過リン酸石灰が生産されるようになりました。
そして、窒素肥料の代表である硫安は、第一次世界大戦後、鉄を作る過程で副産物として生み出され、大量合成できるようになりました。
つまり、窒素肥料のはじまりは、戦争の軍需で、国策として農家に普及してきた技術です。
そして、戦後、日本は戦争に負けて大変な食糧難に陥りました。
日本は、なにより早急に食料不足の解消を目指さなければなりませんでした。
だから国を挙げて、短期的に収量が上がる化学肥料を推奨し、化学農薬併用した栽培体系を国の隅々まで、農協や行政を使って普及させていきました。
それは当時の状況を考えれば、仕方のないことだったように思います。
しかしながら、食糧難という時代を克服した今もなお、この化学肥料と化学農薬を使った農法は、「慣行農法」という名のもと、ほとんどの生産者が疑いなく取り組むべき農法とされています。
ただ、歴史をひも解けば、この化学肥料と化学農薬を組み合わせた今の栽培方法は、古くからといっても戦後普及した技術だとわかります。
「慣行」とは古くからの習わしとして行われていることを言いますが、決してそうではないです。
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